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英語面白ことわざ (1) 「頭カットして尻拡散」

「頭隠して尻隠さず」という言い回しがありますが、英語の世界では、「頭カットして尻拡散」です。

このことは、構造面、意味面、そして綴り面の3つの分野でいえることです。

まず、構造面で考察しましょう。

(1) a student of physics who is afraid of dogs (犬を恐がる物理学[専攻]の学生)

(1)では、studentを修飾する句(of physics)が先に来て、who is afraid of dogsが後に来ています。構造上句よりも節が長いからです。構造上、長いものが後に来るわけです。

(2) It is important to study English conversation. (英会話を勉強することは大切だ)

(2)では、to study English conversationが主語で、元来は、To study English conversation is important.というべきところですが、長いものは後ろに現れることを好む英語としては、仮の主語(it)を置いてでも、このこと(=後ろのほうに長いまとまりが来るようにすること)を達成しようとしている感じです。

これらのことから、構造的に、「頭は短くカットして、尻を拡散している」といえるのです。

次に、意味面です。

(3) I live in Nagao, Hirakata City, Osaka. (私は大阪府枚方市長尾に住んでいます)

(4) She arrived in Tokyo at 2 p.m. on the afternoon of the 3rd.(彼女は3日午後2時に東京に到着した)

(3)は空間的、(4)は時間的に、大きな概念ほど、後ろに現れています。意味的に「尻拡散」が行われているといえます。

最後に、綴りの世界でも、「尻拡散」はいえます。

(5) a. red and yellow (赤と黄色の)

  1. yellow and red (黄色と赤の)

英語では、(5a)のほうが、(5b)よりも好まれるのです。このことは、構造や意味とは関係ないです。単純に単語の長さの問題です。

つまり、英語は「頭カットして尻拡散」ということになるのです!

「立文安国論」を唱える

鎌倉時代の傑僧、日蓮は、『立正安国論』(りっしょうあんこくろん)を著して、<「正法」を立てて国を安定させる>ということを目指しましたが、私は、『立文安国論』(りつぶんあんこくろん)を唱えて、<「文法」を立てて国語を安定させる>ということを目指すべきだと考えています。

実は、文法を知っていると、微妙なニュアンスの違いが分かり、また、表現できます。例えば、次の文の違いがわかりますか?

(a) John is older than middle-aged.

(b) John is more old than middle-aged.

(a)は、「ジョンは中年よりも年を取っている」という意味です。中年(青年と老年の間で40から50歳ぐらい)よりも年だということは、彼は初老ぐらいだということを意味するわけです。しかし、(b)は、「ジョンは「中年」というよりはむしろ「年寄り」だ」という意味で、表現の問題を言っています。つまり、ジョンはmiddle-agedよりもoldで表現するほうがよいと主張しているのです。微妙なニュアンスの違いですね。このような違いがわかる世界が文法を理解している世界です。

文法は、奥深く面白いものだと主張することも「立文安国論」のテーマの1つです。また、詳しく説明しましょう。

『36』の不思議

私が「36」という数字に興味を抱いて、実は、36年になります。完全数6(1+2+3=1×2×3)の2乗で、1から8までを足した数、そして、金剛界曼荼羅の9つのセルの図の中にある四角形の数、それが36です。

36は、人の体温の平均値に近く、この半分の18は一分間の呼吸数に近く、その2倍と3倍は、血圧の下と上の値に近い。文化においても、富嶽三十六景、三十六不動尊、三十六歌仙、三十六計逃げるに如かず、などなど、三十六は1つのまとまりを成します。

民俗学的には、36は鯉の鱗の数とされ、鯉が滝登りをして出世し、龍になると鱗は3倍の108になります。108は煩悩の数としても有名な数字です。

言葉遊び的にも「36」は「ミロク」と読め、神聖な数といえるでしょう。36を構成する「6」は完全数であることは先に述べましたが、もう1つの「3」も三位一体の「3」で神聖な数です。3と6を足した「9」も「3」という陽数の2乗で、中国ではめでたい数です。

私は、精神年齢を常に36歳に保つことを心がけています。つまり、気持ち的には常に36ということです。そして、その3倍の108歳で、茶寿を祝って生涯を閉じるのが理想です。ちなみに、「茶」という漢字は、「十十八十八」に分析でき、10+10+88で108になります。だから108歳の祝いが「茶寿」なわけです。

というわけで、私は1から100までの数字の中で、最も好きな数字は何かと問われれば、間違いなく36を挙げます。だから「36」が私のメールアドレスにも含まれているのです。ちなみに、私の大学のアドレスは、englight36@socio.kindai.ac.jpです。

ところで、36を1つの学問として捉えられないかとすら思います。三十六学とすると、36個の学びがある感じがして、「36」に関する学問という雰囲気がないし、「三十六」学とすると「三十六」という文学か芝居があって、それに関する学問のようなので、学問としての設定はなかなか難しいかもしれません。今回の話のタイトルも「36の不思議」とすると、36個の不思議があるという意味になるので、「『36』の不思議」としています。

実は、「36」という数字には36個の不思議があります。このことと、今回のブログで述べたことを更に詳しく掘り下げて、本にして出版したいと考えています。ご期待ください。

 

言語は経済に似ている——その4 (完結編)

「言語は経済に似ている」をテーマにいろいろと書いてきましたが、今回で、そろそろまとめたいと思います。

文豪ビクトル・ユーゴーが、『レ・ミゼラブル』を出版したときに出版社に送った手紙が、世界一短いと言われています。それは「?」のみであったようです。「売れていますか?」「印税は?」「反響はありますか?」などの意味が込められていると考えられています。この手紙に対する出版社も粋な返事を出しました。「!」のみだったようです。「売れていますよ!」「印税は準備しています!」「反響は抜群です!」といった意味が読み取れます。このやりとりが、最も経済的な言語の使い方で、言語の経済性原理からすると、このやりとりは言語経済界の最高峰に位置すると言っても過言ではありません。

言語の経済性を100%突き詰めると、「以心伝心」という禅の境地になります。言葉を全く使わないで、コミュニケーションができる術は、言語経済性100%の秘宝と言えるでしょう。「以心伝心」を英語では、「理解」(input)の部分を強調すると、tacit understanding(暗黙の理解)と訳せ、「伝達」(output)の部分を強調すると、telepathic communication(テレパシー的コミュニケーション)と訳せます。

ところで、<文化>は、<経済>という基盤の上に花を咲かせます。文明が発達しているかどうかにかかわらず、人々が経済的に安定しているところに文化が栄えるものです。未開の地域であっても、狩猟や採集、遊牧などで食べていける状況であれば、文化は存在します。文化を説明するのに、経済を語らざるを得ないとも言えるのです。

文化と経済の関係は、文と文法の関係に似ています。一般に、<文>は<文法>という基盤の上に成立します。文法がないと文は生成されません。文を説明するのに、文法は不可欠であると言ってもよいでしょう。つまり、次のようなモデルが想定できるわけです。

 

文化

 

経済

 

 

 

文法

 

文法は経済に似ていて、文が文化に似ているので、「文法は文の経済学」、「経済は文化の文法」と言えると思います。

 

文の根幹に「経済性」があることを、私の専門の理論言語学では主張しているので、<文をいかにして経済的にするか?>というのは、文法のテーマであり、その意味から「文法は文の経済学」と言えるのです。そして、文法を研究する私は、<文の経済学者>(sentence economist)ということになります。

 

一方、文化の成立はやはり、経済の影響を強く受けるので、経済という学問の追究者は、<文化の文法学者>(cultural linguist)と言えるでしょう。

 

<完>

言語は経済に似ている—–その3

これまで述べてきたように、言語の不思議な現象には、「経済性」(単純性を好む傾向)という原理が関わっているのです。

見た目の複雑さのみならず、いくつかの文法現象も、経済性の側面から説明できます。

(1) a. John gave Mary a doll.

  1. Mary was given a doll by John.

c.?A doll was given Mary by John.

  1. A doll was given to Mary by John.

(1c)文と(1d)文を見比べると、(1d)文のほうにはtoが存在し、見た目はやや複雑です。「複雑性の度合いが高いほうが、より文法的である」ということは、一見、文法上の大原則(=文法の文法)である「経済性」に違反しているかのように見えます。しかし、事実は全く逆なのです。

(2)  John gave a doll to Mary.

(1c)文の派生は(1a)文から起こっているのに対し、(1d)文の派生は(2)文から起こっています。なお、(1a)文は、(2)文からの派生であると考えられています。派生の複雑性の視点からは、(1c)文のほうが複雑です。従って、「経済性」の原理から、(1c)文はあまりよくないと判断されるのです。

(3) a. (1c)文の派生: 第3文型→第4文型→受動態

b. (1d)文の派生: 第3文型→受動態

(1d)文のほうが単純な派生をしているので、(1d)文は経済性の原理から十分に容認されるというわけです。

いわゆる省略現象は、「経済性」が言語に影響を与えていることを示す「目に見える証拠」といえるでしょう。

(4) a. 「この前お話に出ました本をお買いになりましたか?」

  1. 「あの本をお買いになりましたか?」

c. 「あの本を買いましたか?」

d. 「あの本を買ったか?」

  1. 「あの本買ったか?」
  2. 「あの本買った?」
  3. 「本買った?」
  4. 「買った?」

(4a)文のように具体的に「本」を形容する部分は、当事者間で分かっていたら省略できます。また、(4b)のような尊敬を表す表現(=敬語)は、(4c)のような丁寧表現に縮小することができます。更に、丁寧表現の代わりに、(4d)のような無色透明文に縮めることもできます。「を」を省略して(4e)のような文も可能で、「か」を省略して(4f)のような文も可能です。

「あの」すら、親しい仲間の間で、どの本の話題であるかが明白な場合、(4g)文のような言い回しも可能です。挙句の果ては、(4h)のように、名詞句(「本」という表現自体)をも省略可能なのです。だから、日本語は、省略現象が豊富で、その分だけ、言語に共通の「経済性」の原理が強く影響していると考えてよいでしょう。

言語は経済に似ている—-その2

以前のブログで、言葉は「複雑性を嫌う」という経済性という原理があるという話をしました。今回は、それをもう一歩進めましょう。

更に以前に「言語は数学に似ているのに、その反例として<視点>という概念が存在している」(3つ前のブログを参照)、また、「言語は化学に似ているのに、その反例として<メタ言語>の存在がある」(2つ前のブログを参照)ということを述べました。

視点やメタ言語の存在自体は、言語全般における「文法の文法」、すなわち、<メタ文法>と言ってよい「経済性の原理」により保証されると考えられると、私は考えています。

John=Mary’s husbandで、Mary=John’s wifeなら、数学の世界では、(1a-e)のように、無限に代入できるのですが、言語の世界では、視点が壊れるので、代入不可能となります。これは、複雑さを嫌う「経済性」が力を発揮しているとしか言いようがありません。

(1) a. John loves Mary.

b. Mary’s husband loves John’s wife.

  1. John’s wife’s husband loves Mary’s husband’s wife.
  2. Mary’s husband’s wife’s husband loves John’s wife’s husband’s wife.
  3. John’s wife’s husband’s wife’s husband loves Mary’s husband’s wife’s husband’s wife.

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現実問題として、(1b)文は、第3者の視点を取り入れることにより、OKの文となりますが、これは(1a)文とは意味が異なってきます。同じ意味なら、やはり(1a)でよいのだから、複雑性を嫌う「経済性」の原理が生きているのが分かります。

また、2つ以上の視点が英文に現れないこと自体、経済性の原理が、言語の底流に流れていることを示しています。

更に、(2a)のようなメタ言語的表現を、(2b)文のような分析的表現(化学的表現)に置き換えることができますが、言語表現としては(2a)が好まれること自体、「経済性の原理」がここでも幅を利かしていることが分かります。

(2) a. “Teacher” means a person who gives lessons in something.

  1. The word made with the letters which are a T, an E, an A, a C, an H, an E and an R in this order means a person who gives lessons in something.

言語は経済に似ている—その1

私はチョムスキーの生成文法を専門としていますが、1992年以降、チョムスキーが提唱した考え方に「最小主義理論」(minimalism)というのがあります。これは、単純化して述べると、「言葉の仕組みは、数戸の単純な原理で説明でき、その原理の中の原理ともいうべき、根本的原理は「経済性(economy)」です。

これは、最も簡単に言えば、「言葉は単純であろうとする力が働く」ということです。これはある意味、あたりまえかもしれません。例えば、誰もある文を生み出すのに複雑なものは好まないということがありますね。

(1) ?I want to try to plan to decide to promise to do itl.

(?私はそれをする約束をすることを心に決める計画をする試みをしたい)

(2) ??The fact that the book he is sure is sure is sure is sure.

(??彼が確実なものだと確信する本は確かであるという事実は確かである)

(3) *I made him have her let them see us hear you play the piano.

(*私は彼に彼女に彼らに我々にあなたがピアノを弾くのを聞くのを見てもらうことをさせるようにさせた)

(1)~(3)は全て、文法の視点からは文法規則の連続適用を行っているだけなので、文法的なのであるが、現実には、これらは容認されにくいでしょう。特に(3)は日本語にしたらわけが分からないですね。

つまり、英文を作成するには、色々な「規則」があります(疑問文にする規則、関係詞節を作る規則・・・)が、それらの規則を規制する、いわば「規則の規則」というようなものがあります。これを「原理」と呼びます。その原理の代表格が経済性に他なりません。

英語は化学的であるが、100%化学的ではない

英語は化学的だ!

英語は化学の発想で捉えることができます。

例えば次の文を考えてみましょう。

(1) *This is teacher.

言語学では、非文法的な文に*をつけます。(1)の文は*をつけないといけない間違った文です。次の文のようにしないといけません。

(2) a. This is a teacher.

  1. This is the teacher.

(2)文に書き直したとたん、文は安定します。(2a)文は「この方は先生です」、(2b)文は「この方が先生です」の意味です。不定冠詞と定冠詞の差は、「は」と「が」の差になります。

(2b)について、いきなりこの文を発すると変ですが、相手に「先生がいますよ」と伝えておいて、実はこの方がそうであるというような紹介をするとき、極めて自然です。補足して言えば、「この方が(先ほど、お話していた)先生です(よ)」という感じですね。

ここで、やや「こじつけ」(forced analogy)に響きますが、つぎのような類推が成り立ちます。

(3) a. 単語レベル・・・原子 → teacher

  1. 句レベル・・・分子 → a teacher / the teacher
  2. 文レベル・・・化合物 →  This is a teacher. / This is the teacher.

単語レベルは原子のレベルでそれだけでは安定しません。名詞の場合は、冠詞を筆頭に形容詞などがついて(つかない場合もありますが・・・)初めて安定するわけで、名詞句は英語の分子と言えるでしょう。「句」はまさに「文子」(=分子)、すなわち「文の子」ですね。

分子が複数集まってできる化合物は、文に似ています。これもジョーク的に言うなら、文は「加語物」[かごぶつ] (=化合物)です。

言葉遊びはこれぐらいにして、ここで私が言いたいことは、<言語は単語のみでは安定しない>ということです。文のレベルで言うと、文は単語の単なる足し算だけではなく、掛け算を含めた複雑な演算の結果生じるものであると言えます。

とにかく、言語の成り立ちは、足し算を暗示する物理的なものではなく、掛け算を含めた計算機構を持つ、化学的な特徴を持つのです。

英語・化学類似論に対する反論

英語と化学は似ているという主張をしておきながら、それに対する反論も行うという暴挙(?)に出たのと言われそうですね。

「英語は化学的にして、化学的ではない」ということを言いたいのです。一見矛盾に思えるかもしれませんが、実はそうではありません。英語の仕組みの説明に化学的な発想を組み込むことが可能ですが、そうではないと言える側面も同時に存在しているということを言いたいのです。

次の文を観察しましょう。

(4) “Teacher” means a person who gives lessons in something.

(4)において、teacherは無冠詞であってもかまいません。しかし、言葉が完全に化学的であれば、それは許されません。「化学で化学を説明すること」はできません(→「言葉で化学を説明する」から)が、「言葉で言葉を説明すること」はできるわけで、これが化学の世界と言葉の世界の根本的な違いであると言えるでしょう。

すなわち、言語に対する「メタ言語」(言語の言語)が存在するのが、言語の世界の特徴と言えます。(「メタ化学」すなわち「化学の化学」という発想はないのです)

英語とはどういうものであるか・・・このテーマで掘り下げた議論は、次の記事で、さらに進めます!

英語は数学的であるが、100%数学的ではない

私のブログを楽しみにしておられる皆様、またブログを書く時間があまりありませんでした。申し訳ないです。今後は、できるだけ、時間を作って、書く事にしますね。今はどうも時間が最大の敵なのですが、時の流れと共に物事を楽しむだけでなく、時間そのものを楽しめる境地を目指したいものです(Time is the greatest enemy to me, but I would like to change this enemy into the best friend of mine in the near future, by which I mean I can enjoy time itself as well as enjoy something with the passage of time.)。

「JohnとMaryの2人がチェスを5回戦戦い、どちらの成績も3勝2敗で勝利した。どうしてか?」

この問題に答えられますか?まず、次の文を考えてみましょう。

(1) John and Mary played chess.

実はこの文は曖昧です。どう曖昧かわかりますか。

(2) a. ジョンとメアリーがチェスで対戦した。

  1. ジョンとメアリーが2人で、第3者とチェスで対戦した。
  2. ジョンとメアリーが別々にチェスをした。

(2c)の意味の場合、次のように言い換えられます。

(3) John played chess and Mary played chess, too.

(=John played chess, so did Mary.)

この(3)文は、数学的な公式が当てはまることを意味しています。

(4) a. (X+Y)P = XP + YP

  1. X=John, Y=Mary, P=played chess

最初に挙げた質問は、(4)のように英語に数学的な公式が当てはまるので、回答できるわけですね。彼らは別々にチェスをしていたので、どちらも3勝2敗であっても不思議ではないわけです。

(1)文が(3)文に置き換えることができるということは、英語が数学的であることを意味しています。しかし、(2a,b)の意味もあるので、完全に数学的であるとは言い切れませんね。

数学的でないことを証明する、もう1つの興味深い例を挙げておきましょう。

JohnとMaryが夫婦で、JohnがMaryを愛しているとしましょう。すると、次の文が成立します。

(5) a. John is Mary’s husband.

  1. Mary is Jonn’s wife.
  2. John loves Mary.

英語が完全な数学であれば、(5a)と(5b)を(5c)に代入できるはずです。実際に代入してみましょう。

(6) Mary’s husband loves John’s wife. (メアリーの夫は、ジョンの妻を愛している)

これは妙なことになりました。(6)の翻訳が、どうしてもメアリーの夫とジョンの妻が不倫しているような意味になってしまいます。

これは、英語が単なる数学ではないことを示しているわけですが、なぜ、こんなことが起こるのか、わかりますか?

実は、これには「視点」ということが大きな影響を与えているのです。Mary’s husbandはMaryの視点、John’s wifeはJohnの視点で、異なる視点が同じ文にあってはならないので、この文は、Johnの視点でもMaryの視点でもなくなります。つまり、この文は、第3者の視点になるので、Mary’s husbandがJohnと感じず(Maryの視点ならMary’s husbandはJohnだと認識するでしょう)、また、John’s wifeがMaryと感じない(同様にJohnの視点ならJohn’s wifeはMaryと感じるでしょう)のです。

英語は、論理的なので、数学的であるといえますが、必ずしも、100%のレベルで数学的だということはないことが分かりましたでしょうか。

英語の不思議をこれからもお届けます。

英語世界を仏教的に表現する(その2) 第4話

第3話から第4話まで、時間が空きましたが、今日は、動詞と助動詞が、心の世界を表すことを示しましょう。

英語学的には「法」(学術的な視点からは、助動詞が法を担うが、動詞は助動詞と組み合わさるという意味で、法的な側面があると言える)、仏教的には「識」の問題となる(精神的な世界に関わっている)のです。

■動詞は「識」に関係する!

唐突ですが、名詞を叫んだ場合と動詞を叫んだ場合を比べてみましょう。

名詞を叫んだ場合    Apple! (りんご!)

動詞を叫んだ場合  Go!  ([あっち]行け!)

どちらが意思を伝えることができるかといえば、動詞を叫んだ場合です。相手に明らかに意思が伝わります。「なんか嫌われているな?」とか、「何かあぶないのかな?」とか。

一方、Apple!と聞いた場合は、「いったいりんごがどうしたの?」という感じになるでしょう。

動詞を単独で用いると、文法的には命令法といって、相手に何かを命令する用法となります。だからこそ、動詞は本質的に相手の心に働きかける力を持っているといってもよいのではないかと私は考えています。だから、動詞は「識」に相当すると考えているわけです。

「本質的に」といったのは、命令法では動詞の変化形ではなく、原形(=元来の形)を用いるからです。つまり、元来の形を用いることが、直接相手の心に訴えることにつながるわけです。だから、本質的に動詞は「識」と関係が深いのです。

 

■では助動詞が「識」なのは何故か?

助動詞は、まさに、相手との心的交流には、絶対といっていいほど欠かせない品詞です。

相手の心を動かすには、助動詞が不可欠だということです。こころは「品」だったのだから、助動詞が英語の「品」を担っているといっても過言ではないでしょう。

ところで、助動詞には2種類の意味があります。いずれも「心」に関係しています。代表的助動詞について確認してみましょう。

    

代表的助動詞とその2つの意味

 

助動詞 相手に対する気持ちを

伝える意味

あることに対する自分の気持ちを伝える意味
Can

 

May

 

Must

 

Should

 

[軽い命令]

~したらいいよ

[許可]

~してもいい

[命令]

~しなければならない

[意見]

~すべきだ

[客観的な可能性]

~がありうる

[主観的な可能性]

~かもしれない

[高い可能性]

~に違いない

[比較的高い可能性]

~のはすだ