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超基本動詞を4つ挙げるとすると・・・

英語において超基本動詞を4つ上げるとすると、make, get, giveそしてhaveになる!と、私は、考えています。

                  Make

Give     +     Get

Have

上図においてmake—haveの縦軸は、「存在」の軸で、give—getの横軸は「移動」の軸です。

makeは新たな存在が生まれること、haveはその存在が継続することを意味します。makeは<0→1>、haveは<1→1>のイメージです。また、makeは存在の変化、haveは存在の無変化を表すとも言えます。

一方、getは相手から自分への物事の移動、giveは自分から相手への物事の移動が基本の意味です。getは<You ⇒ I>、giveは<I ⇒ You>のイメージです。

これら4動詞はお互いが関連しあう超基本動詞ということになるのです。80年の人生もこの4動詞で表せると、私は考えています。

0歳から20歳: makeの時期 「体」を作る時期 (make a body)

20歳から40歳: getの時期  「頭」を得る時期 (get a head)

40歳から60歳: giveの時期  「心」を与える時期 (give a heart)

60歳から80歳: haveの時期  「魂」を持つ時期 (have a spirit)

make a body(体力)、get a head(教養)、give a heart(慈愛)、have a spirit(精神)の順番が重要なのではないかと私は思います。そして、体と知と情と意が、順に完成されていくのだと考えています。

3種類の動詞—脳科学の視点から

脳の仕組みが徐々に解明されつつありますが、私は、<左脳的行為→右脳的行為→左右の二律背反を超えた行為[私は「統合脳的行為」と規定している]>という展開に対し、言語には、それぞれの動詞があるのではないかとの仮説を最近になって立てています。
例えば、理解の仕方は<分かる→つかむ→悟る>と規定できます。英語では、<understand→grasp→realize>となります。分析して分かるのが左脳的、トータルで概略をつかむのが右脳的、そして、その二律背反を超えた理解のあり方が、統合脳的と言えます。
思考の仕方は<考える→思う→想う>と規定できます。英語では<think→feel→imagine>でしょう。また生産の仕方は<作る→造る→創る>で、英語では<produce→form→create>となると考えています。
思考は、論理的なthinkは左脳的で、感性的なfeelは右脳的、よりステージの高い思考形式としてのimagineは統合脳的と言えるでしょう。一方、きちんと準備して生み出すproduceは左脳的、ざっくりと形作るのを暗示するformは右脳的、そして、よりレベルの高い生み出し方のcreateは、統合脳的と言えるでしょう。
「想うこと」はimaginationで、「創ること」はcreation。「想い」が「創る」に発展する面もあり、興味深いと感じています。そして、想像力が創造力を育てると、私は考えています。
私は言葉の研究者ですが、我々研究者の分野においては、例えば<問う→学ぶ→学問する>、<見る→見つける→科学する>、<考察する→発見する→発明する>などの動詞の組が想定できると「考えて」います。そして、このような3段階で研究が進展するのではないかと「思って」います。ついには、<仮説→説→論>への発展、さらには<論→理論→学>への発展に寄与するような研究を推進したいと「想って」います。

重なり志向と分かれ志向・・・その6

今回は、これまでのエッセイのまとめ(最後の部分)を紹介します。

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5.まとめ

2つのものがあり、それに対して何らかの対処が必要な場合、2つの方向性がある。1つは、2つをまとめる方向、もう1つは2つを分ける方向である。前者は重ね志向、後者は分け志向といえる。その志向性を結果から見れば、それぞれ重なり志向、分かれ志向ということになる。

本稿では、日本文化は重なり志向、西洋文化は分かれ志向という全く正反対の発想を持つということを論じた。この側面は、いろいろな事象から証明されることである。

重なり志向における「重なり」は「重」を連想するが、日本語において「重」を含む単語、すなわち、「重要」「重視」「貴重」「慎重」などがあるが、これらは、全てプラスイメージである。つまり、このこと自体、日本文化は重なり志向であることを意味している。

一方、英語の世界で「重」を意味するheavyにはプラスイメージの意味が極めて少ない。このことは、西洋において重いことを重視しないということを暗示する。そして西洋文化が重なりを嫌う可能性を示唆する。重なると重さを連想するからである。15

しかし、同時に、全てすっきりと割り切れるものではないということ、すなわち、日本文化に分かれ志向があるということ、それはどんな事象であるのか、そして、むしろ日本史の発展に、分かれ志向が大きく影響を与えているということを述べた。

哲学的事象、例えば、存在・認識・知・愛などと志向性との関係、また、志向性が能力開発に与える影響などについては、今後の研究課題にしたい。

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  1. heavyの意味をプラス・マイナスのイメージで分類する。

(i) プラスイメージ:…に強い[on…]、[口語] 重要な、有力な、金持ちの、[俗語]素晴らしい

(ii) マイナスイメージ:陰気な、憂いに沈んだ、酷い、骨の折れる、(パン・ケーキなどが)生焼けの[膨らんでいない←重い]、(ガソリンなどを)大量に消費する[heavy on oil]、(天気が)激しい、(海が)荒れた、(食べ物が)しつこい、(土が)粘つく、(道が)ぬかった、(空が)うっとうしい、(文章・芸術などが)面白くない、(人が)鈍い

なお、イディオムは全てマイナスイメージである。

(iii) play the heavy father(厳しく叱る)

come the heavy (father)(偉そうに見える)

on the heavy [俗](犯罪行為に従事して)

hang heavy [=lay heavy](重くのしかかる)

cf. Time hangs heavy on her hands.

(彼女は時間を持て余している)

重なり志向と分かれ志向 その5

私の日本文化エッセイ「重なり志向と分かれ志向」、今回は、第4章全体をご紹介します。日本文化における分かれ志向がテーマです。

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4.日本文化における分かれ志向

4,1、日本宗教史における「重なり志向・分かれ志向」循環論

これまで、日本文化は重なり志向、西洋文化は分かれ志向であると論じてきたが、日本文化にも分かれ志向がないわけではない。特に日本宗教史の分野で、分かれ志向がいくつか散見される。

日本文化における仏教の受容は、日本の風土と外来宗教の重なりの結果で、蘇我氏の隆盛は日本宗教史上の重なり志向の萌芽を意味する。

しかし、奈良時代においては、種々の宗派が導入され、南都六宗と称された。いくつかの宗教が独立して存在する状況は、宗教史における分かれ志向が現出であるといえる。8

さて、平安時代になると、最澄と空海が、仏教の中でもっとも重なり志向的な宗派である密教をもたらして、仏教が神道と重なる現象(神仏習合または神仏混淆と呼ばれる)が起こってきた。9

鎌倉時代になると、仏教は庶民のためのものとなり、様々な宗派が確立した。それぞれ個性を主張しているので、宗教界の分かれ志向が再び起こったことになる。

室町時代になると、七福神信仰が盛んになり、十三仏の信仰が完成する。これは数多くの仏たちの中から、一定数の仏たちを選び出し、まとめるという「重なり志向」の傾向が見える。10

戦国時代から安土桃山時代にかけて、日本の宗教事情は、様相を変える。というのは、キリスト教の伝播である。キリスト教は、これまで議論したとおり、分かれ志向の宗教なので、この時代は、日本宗教史上は分かれ志向なのである。11

江戸時代には、四国八十八箇所の巡礼が広まった。これは八十八の霊場を一つにまとめた重なり志向の帰結である。また、江戸時代には、仏教の宗派的個性は重要でなく、殆ど全ての寺が葬式に従事し、人口の異動などを管理する市役所的な役割を持つに至るので、仏教という1つのまとまりになった。これは重なり志向といってよい。

結論としていえることは、日本の宗教史は、重なりと分かれが交互に繰り返されているということである。

(21) 日本宗教史と志向性

奈良時代 平安時代 鎌倉時代 室町時代 戦国・安土桃山時代 江戸時代
分かれ 重なり 分かれ 重なり   分かれ 重なり
南都六宗 密教  新仏教 七福神等  キリスト教 八十八箇所

 

4.2.最澄は分かれ志向、空海は重なり志向

平安時代初期の日本仏教界における僧侶の双璧として、最澄と空海が存在するが、この2名は路線が異なる。

最澄は、これまでの宗派や考え方の中で、有益と思われるものを取捨選択し、円・密・禅・戒の4者に纏め上げた。つまり、仏教の各宗派や考え方全体から、重要なものを分けて再構成したので、仏教分類上の基本的発想は分かれ志向であるといえる。特に、当時、政権側が望んでいた奈良仏教界を排除したという点が、自らの仏教が奈良仏教から決別することになるわけで、分かれ志向であることは理解できよう。

一方、空海の実績としては、仏教の各宗派を取り込み、奈良仏教界も自らのシステムに組み込み、仏教だけでなく、道教や儒教、更に、欲望人の考え方まで、取り込んだという点が特筆される。つまり、自らの密教に、他の全ての宗派や考え方を重ね合わせたということから、空海の発想は重なり志向であるといえる。12

 

4.3.日本史の転換期と分かれ志向

日本史の転換期には、分かれ志向が優勢となった。これは、日本に限ったことではない。西洋の宗教改革は、従来の宗教との決別、すなわち宗教上の分かれ志向であるといえるし、市民革命は、従来の絶対王政からの決別、すなわち政治上の分かれ志向であると考えることができる。重なり志向が特徴である日本においても、このことは例外ではないと思われる。

日本史において、少なくとも6回の過渡期、つまり、分かれ志向が勃興してきている。まず、平安時代の藤原氏の台頭により、天皇中心の政治から、貴族政治へと変化したとき、最初の分かれ志向(分かれ志向第1期)が存在する。次に、平安から鎌倉へ、貴族政治から武家政治へと変化したのが、第2の分かれ志向(分かれ志向第2期)が見られる。更に、戦国時代は、これまでの体制に下克上的な発想で、それぞれが分離して発展しようとする第3の分かれ志向(分かれ志向第3期)が生まれる。

幕末には、これまでの鎖国の体制から脱却し、新たな開国を目指す第4の分かれ志向(分かれ志向第4期)が勃興し、明治期になると、特にヨーロッパ文化の取り込みにより、これまでの日本と決別する第5の分かれ志向(分かれ志向第5期)が強くなる。最後に、戦後、これまでの軍国主義体制を捨て、アメリカに近づく第6の分かれ志向(分かれ志向第6期)が起こる。13

 

4.4.分かれ志向と重なり志向の相互作用と日本の発展

創造は0から1を生み出すことなので、空から有が分かれて出現すると発想できるので、分かれ志向であるが、継続は1をそのまま1に保つわけで、最初の状態に次の状態を重ね続けることだから、重なり志向であるといえる。更に、破壊は1から0への移行であるから、有から空へ分離するので分かれ志向である。

歴史における変換期は、以前の体制の破壊という分かれ志向と新たな体制の創造という分かれ志向が混在すると考えることができる。そして、新たな体制が継続しない限り、発展はないのは自明の理である。だから、発展のためには、分かれ志向の後には必ず重なり志向が必要である。

日本はそもそも重なり志向の文化なので、体制が急変しても、比較的安定して、そのまま継続したことが多い。新たな文化や政治制度を導入しても、その新しいものを、日本の風土に合うように重ね合わせるという重なり志向が日本の伝統であった。つまり、日本風にアレンジするというのである。

例えば、日本に入った仏教も日本的仏教として定着したし、新しいコンピュータ技術をアメリカから学んでも日本人が好むものにアレンジ(軽薄短小のものにするなど)してきた。

新しいものをまねても、日本に合わせてまねるというということを重視したのである。まねることの達人は、そのままコピーすると言うことでなく、アレンジするのである。少し大げさに言うと、新しいものを古いものにうまく重ね合わせるということである。これはかなり高度な重なり志向といえよう。日本はこれが得意であったため、文化的にも高く、経済的にも経済大国となったといえるのではないだろうか。14

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  1. 六宗が個々に存在したとはいえ、東大寺などでは、八宗兼学ということで、それぞれの宗派(学問といえる)を同時に学ぶことができたので、分かれ志向の宗教において重なり志向の学問が両立したということになる。(あるいは、分かれ志向の宗教に重なり志向の学問が重なったということ自体も「重なり志向」である)
  2. 密教が重なり志向的といえるのは、色々な宗派を自らの教えに融合させる力があると同時に、密教で重要な三密が重なり志向といえるからである。

(i) a. 身密:

両手を合わせて(=重なり志向)、いろいろな組み方をする。

b. 口密:

真言を繰り返し(=重なり志向)唱える。

  1. 意密:

2つの曼荼羅を重ね合わせるイメージで曼荼羅を観想する。

ちなみに、仏教宗派の中で、最も分かれ志向的な宗派は、浄土教である。というのは、他の仏を認めるものの、阿弥陀仏にのみへの信仰を推奨する(=阿弥陀仏への分かれ志向)からである。

  1. 十三仏については、資料1参照。
  2. 戦国時代も安土桃山時代も宗教的には分かれ志向であるが、政治的には微妙に異なる点が興味深い。戦国時代は、それぞれの戦国大名が独立して競い合うので、分かれ志向の時代であるが、安土桃山時代は、織田信長や豊臣秀吉による天下統一を目指すので、明らかに重なり志向(複数の国を1つに重ね合わす発想)の時代である。
  3. 空海が、自らの密教システムの中に、全ての事象をどのように取り込んだかは、資料2を参照。下線部は筆者加筆。
  4. これまでに述べたのは政治的分かれ志向の変遷であるが、文化的分かれ志向もありうる。例えば、平安時代は、これまでの中国一辺倒の文化から決別し、国風文化を目指したという点で文化的分かれ志向期といえる。更に、現実の政治が分裂したという実質上の政権の分かれ志向期も存在する。それは、もちろん南北朝時代である。
  5. 「まねる」ということ自体が、重なり志向という側面であることも特筆すべきである。1から1へ継続することで、1から2へ発展させることではないからである。

 

資料1 十三仏 (Wikipediaより)

これらの仏は審理において実際の裁判所における弁護士の役目を務めることになる。

十三仏 裁判官 読み 審理
不動明王 秦広王 しんこうおう 初七日(7日目・6日後)
釈迦如来 初江王 しょこうおう 二七日(14日目・13日後)
文殊菩薩 宋帝王 そうていおう 三七日(21日目・20日後)
普賢菩薩 五官王 ごかんおう 四七日(28日目・27日後)
地蔵菩薩 閻魔王 えんまおう 五七日(35日目・34日後)
弥勒菩薩 変成王 へんじょうおう 六七日(42日目・41日後)
薬師如来 泰山王 たいざんおう 七七日(49日目・48日後)
観音菩薩 平等王 びょうどうおう 百か日(100日目・99日後)
勢至菩薩 都市王 としおう 一周忌(2年目・1年後)
阿弥陀如来 五道転輪王 ごどうてんりんおう 三回忌(3年目・2年後)
阿閦如来(閦=門<众) 蓮華王 れんげおう 七回忌(7年目・6年後)
大日如来 祇園王 ぎおんおう 十三回忌(13年目・12年後)
虚空蔵菩薩 法界王 ほうかいおう 三十三回忌(33年目・32年後)

 

重なり志向と分かれ志向 その4

今回は、3章全体を紹介します。行動心理の側面からの考察です。

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3.行動心理と重なり志向・分かれ志向

3.1. しぐさと志向性

西洋の握手と日本のお辞儀を比べてみる。握手は、2.2.で述べたように、2人の個人が独立した上で、仲を確かめる行為といえる。そもそも分かれ志向である。

お辞儀は、個々の個性を認める方向に行くのではなく、相手の個性に合わせるべく(少なくとも相手に従順であることを示すように)、頭を下げる行為である。この行為の形自体が重なり志向であるといえる。通常、相手もお辞儀をするのであるから、2人は頭を重ねているように見える。また、頭と胴体で「折れる」状況は、相手に対して「折れる」ことを暗示し興味深い。

握手も、見方を変えれば、手と手を重ねる行為ではあるが、少なくとも相手に対して折れることはない。姿勢も折れず、堂々としている。やはり、相手からは一線を引く「分かれ志向」である。

 

3.2.「坐」の日本と「立」の西洋

座るということは、ひざのところで折り曲げて、足を折り重ねる動作であるから、重なり志向的である。日本文化では正座という正式な座り方があるが、正に、重なり志向である。

西洋文化は、狩猟社会や牧畜社会をベースに発達した面があるので、極めて「足」が重要である。足がしっかりと活躍するのは、まず「立」の行為の際である。西洋に立食パーティがあったり、西洋の幽霊に足があったり、足の重要性は随所に見られる。立つという行為において、足は曲げるのではないから、重なり志向ではないといえる。また、足と大地は対立する。だから、立つ行為は分かれ志向といえる。少なくとも、立つという行為は、足と大地の融合を暗示しない。つまり、この点でも、重なり志向ではないであろう。

足に関わる行為が、次の段階で、活躍するのは「走る」という場面である。これは、足と地面が離れるので、分かれ志向の行為である。これに対し、「歩く」という行為は、足と地面が離れることはないので、いや、むしろ、足と地面が重なるので重なり志向といえる。

まとめてみると、つぎのようになる。

(17) a. 坐・歩 → 重なり志向

b. 立・走 → 分かれ志向

 

3.3.手と足の対比と志向性

手の平は合わせることができるが、足の裏は合わせるのに苦労する。一般に文化的行為として、手を合わせる行為はよく見られるが、足を合わせる行為は殆ど存在しない。

例えば、日本文化において、神社での拍手、仏教寺院での合掌は、手を合わせる行為である。手に関わるこれらの行為は重なり志向であるといえる。一方、足は重なり志向的ではないということになる。

日本文化は手の文化といわれるほど、かつてから「手」を重視する側面が多かった。手は農耕社会において欠かせないものであった。手によって田植えをし、手によって収穫するからである。

そのことが影響し、「手」を用いたイディオムが増えたのである。日本文化は手の文化、すなわち、重なり志向の文化といえるのである。

(18) a. 手から始まるもの:手形、手紙、手鏡、手前、手下、手軽、

手頃、手相、手品、手配、手入、手間、手刀、手塩、手玉、

手帳、手取、手数・・・

b. 手で終わるもの: 上手、下手、切手、勝手、痛手、苦手、

得手、大手、相手、派手、先手、空手、岩手、選手、歌手、

投手、捕手、拍手、・・・

c. イディオム:  手当たり次第、手玉に取る、手薬煉引く、

手古摺る、手際がいい、手っ取り早い、手を変え品を変え、

諸手をあげて、口八丁手八丁・・・

これらを英語にしても、ほとんどhandを用いない。また、日本語は、分かれ志向の足を用いた表現は少ないが、あってもマイナスイメージであ  る。

(19) 足が出る、足がつく、足を洗う、足をすくう、足を奪われる、

足を食われる、足を取られる、足を抜く、足の踏み場もない、

足手まとい・・・

一方、英語の世界では、足に関わるイディオムはプラスイメージが目立つ。

(20) get one’s foot in (the door):首尾よく潜り込む、知られ始める、

第一歩を進める

have both feet on the ground:実際的である

have one’s feet under one:自立する、自分の考えを持つ

keep one’s feet:転ばず立っている、成功する

 

3.4.研究と教育と志向性

大学の世界では、研究と教育の2つが重要であるとされる。大学が単なる研究機関ではなく、高等教育機関だからである。

研究は、学問・勉強あるいは学習と同じ線上にある。何かを求めて自分自身を高めるという行為には変わりないからである。この行為は、自分の持つ情報や知識に、他の領域の情報や知識を足し算することに過ぎないので、重なり志向性が強いといえよう。

一方、教育は、自分の持つ情報や知識を、自分自身から分けて、相手に与えるのであるから、分かれ志向と規定することができる。

言い換えれば、研究は、これまでの知識に新たな知識を重ね合わせる行為、教育は、これまでの知識を分け与える行為なのである。7

日本が中国に、遣隋使・遣唐使を派遣して、新しい文化を学ぶ行為は、重なり志向であるといえ、西洋人がキリスト教を伝えるために、日本に来た宣教師の布教活動は、分かれ志向である。

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  1. 研究とは、既知の知識に新たな知識を重ね合わせ、独自の理論構築や、発見を行ったり、発明をしたりして、外部に発表するという最終段階を経て、完結するという側面があるので、基本は重なり志向であるが、最終的には分かれ志向といえなくもない。但し、勉強や学習は、少なくとも重なり志向である。

重なり志向と分かれ志向 その3

私のエッセイ「重なり志向と分かれ志向」、今回は2章全体を紹介します。

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2.文化人類学的視点からの重なり志向と分かれ志向

2.1.日本と西洋の民族構成による志向性の違い

西洋は概して、もちろん例外があるが、歴史上多民族国家である国が多かったので、宗教や考え方も異なるという状況もあった。その意味では、国の成り立ち自体が分かれ志向といえる。いろいろな民族・宗教・社会に分かれている。

ところが、日本に目を向けると、歴史的には、民族的にはアイヌ人、渡来人などが存在しているが、ほぼ同一民族国家である。しかし、宗教的には、古来の神道に加え、仏教が伝来し、キリスト教も伝来したので、宗教的には複雑な構造になっている。だからと言って、宗教的に分かれ志向とは言いがたい。というのは、少なくとも神道と仏教は共存し、ほぼ同化している面があり、神道と仏教が重なっているといえる。だから、日本は宗教的には重なり志向である。6

 

2.2.人間観と志向性

日本人は、「人」という字で教訓を垂れることがある。人という字は支えあっているように見える。人のあり方は、正に依存関係が重要だとの教訓が、この漢字から導ける。「依存」とは、人がお互いに助け、助け合うので、イメージとしては「重なり」である。

一方、西洋人も、Humanの頭文字Hを用いて、教訓を垂れることがある。その場合は、縦の線を2人の人間に見立て、真ん中の横棒は手を差し伸べて、握手している様に見立てるのである。つまり、独立心が、その文字の成り立ちから読み取れるのである。「独立」は明らかに「分かれ」であるのは理解できよう。

 

2.3.自然観と志向性

日本文化においては、自然と人間は峻別されず、自然とともに生きる、自然の中で融合した生活が重視されてきた。したがって、日本文化は、人間と自然の重なり志向の中に生まれてきたものであるといえる。例えば、次の図式を考察する。

(14) 自然—庭—縁側—家屋—人間

日本の庭は自然を生かすことが重視される。少なくとも人工的ではない。例えば、西洋の花壇にみられる幾何学的な(=人工的)形はあまり好まれない。また、自然を取り入れる借景というのは、正に、庭を自然と融合させる仕組みである。

また、庭(自然の象徴)は家屋(文化の象徴)と峻別されることなく、縁側でつながっている。家屋すら自然と溶け合う(=重なり合う)という側面が強調されている。

結果として、家屋に住む人間は、自然と極めてスムーズにつながっていると思われる。日本文化では、自然との融合(=重なり合い)が大切なのである。

一方、西洋文化においては、自然と人間は峻別され、厳しい自然は人間に対し、挑戦すべき課題を与え、豊かな自然は人間に対し、恵みを与える。いずれにしても、キリスト教の発想では、神の形に似せた人間が最も尊く、自然は人間が克服、利用するために、創られたので、自然は人間よりも下位に位置する。自然と人間は分かれ志向の発想の中で、意味を持つ。

 

2.4.超越者観と志向性

2.3で、自然と人間は峻別されると述べたが、被造物としては同じレベルである。しかし、同レベルといっても、重なりはない。この被造物と峻別されるのが、創造者としての神である。だから、西洋思想では2重の峻別が行われている。つまり、二重分かれ志向構造となっている。

(15) 創造者(神)———– 被造物(人間 ———- 自然)

↑                         ↑

峻別                     峻別

一方、神道的風土を中心とする日本文化においては、この峻別がない。つまり、自然と人間と超越者は、次のように同一線上に存在する。

(16) 超越者(八百万の神々)———– 人間 ———– 自然

神々は自然的な側面と人間的な側面を併せ持つ(この意味でも重なり志向といえる)。天照大神は、太陽(自然の一部)の象徴であるとともに、極めて人間的である。例えば、弟のスサノオが暴れるのに腹を立て、岩戸に隠れるという行為に類する行動は、人間的といえる。とりわけ、神々は創造者でもなく、全知全能でもないという点が、人間らしい。

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注6 宗教的には、西洋では起こりえない宗教の習合的状況、つまり、神仏  習合(神儒仏習合という側面もある)ということが起こってきた。

重なり志向と分かれ志向 その2

私のエッセイ「重なり志向と分かれ志向」、今回は1,2から1.4までの部分を紹介します。

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1.2.以心伝心の重なり志向とディベートの分かれ志向

日本文化に影響を与えた禅では、言葉を軽視し、心を重視しているといえる。しかし、私は、実際は、言葉を心のレベルに合わせることを理想とする、つまり、何も言わなくても心で理解するという段階を重視するといえるので、禅は「言葉の無力性」を強調するものの、言葉自体の存在を否定するものではない。

心(伝えたい内容)がそのまま言葉(伝える内容)になる心的ステージを重視する禅は、正に、心と言葉を重ねる重なり志向といえる。

一方、西洋文化は、言葉の有力性を重視し、その産物としてディベートが厳然と存在する。肯定側と否定側に分け(分かれ志向)、意見を闘わす仕組みが重要であるので、ディベートは正に、分かれ志向が生み出した言語活用術といえる。

 

1.3.日本語と英語の語彙に見る志向性

日本語では、例えば、次のような言葉が存在する。

(6) ○△○△ → わんわん、どんどん、どきどき、うきうき、うろうろ、

ぽろぽろ…

(7) ○っ○り → すっきり、めっきり、どっきり、どっぷり、どっかり、

しっかり…

(6)により、○△を繰り返す(=重ねる)ということで成立する表現が多いということが分かる。また、(7)においては、同じ音節を繰り返すということはないものの、同じ仕組みの表現が次々に(=重なるように)現れるという点が特筆できる。このような芸当は英語においては、不可能に近く、意味的にも重要なものが少ない。4

日本語は、名詞に「する」を重ねて新たな動詞を作ることが可能であるが、英語では、もちろん<do+名詞>が不可能であるとは言わないが、極めて制限される。しかも、doにそのまま組み込まれるわけではなく、doと名詞の間にスペースをとること(=これも一種の分かれ志向)になる。

(8) a. 洗濯+する → 洗濯する

b. do+laundry → do the laundry

(9) a. トレーニング+する → トレーニングする

  1. do+training → do one’s training

 

1.4.言語学的視点を踏まえた重なりと分かれ

英語の分析から全言語の普遍文法の構築を目指した生成文法理論は、文を2つに分けるというbinaryの発想を根本とする。以下は、一例を示す。

(10) a. IP → NP+VP

  1. NP →Det + N’
  2. N’ →A + N
  3. VP →V’ + Adv
  4. V’ →V+NP

(10a)から(10e)では、全ての範疇が2つに分けられている点(言語学上の分かれ志向)に注意すべきである。これに具体的な単語を当てはめて、樹形図で示す。

(11) The tall man ate breakfast quickly.

(12)          IP 5

/   \

NP       I’

/  \    /  \

Det     N’  I      VP

(the)   / \       │  \

A   N    V’     Adv

(tall) (man)  / \  (quickly)

V   NP

(eat)  (breakfast)

日本語はbinaryの発想で説明できるかどうか、怪しい現象が目立つ。一例を挙げてみる。

(13) a. 3本のワインを持ってきた。

b. ワインを3本持ってきた。

  1. ワインを友達が3本持ってきた。
  2. ワインを3本、友達が持ってきた。

e. 3本、ワインを友達が持ってきた。

(13a,b)においては、主語が省略されており、(13a)では「3本」という数量詞が「ワイン」を修飾しているが、(13b)では「3本」が遊離してしまっている。また、(13c)では「友達」という主語が目的語と「3本」の間に割り込んでいる。(13d,e)も日本語としてはOKである。このような統語的性質は、(12)で示したような樹形図では描きにくいと思われる。

「3本」という遊離数量詞は、比較的いろいろな位置に生じる(=その位置にまるで重なるかのごとく存在できる)という特性がある。日本語は、英語のような分かれ志向ではなく、重なり志向的な統語的特徴を持っているといえるのではないかと思われる。

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  1. 英語の世界にも、この例が全く存在しないわけではない。hで始まる単語に多いが、全く同じ形を重ねるわけではない。

(i) helter-skelter, higgledy-piggledy, hocus-pocus, hoity-toity, …

また、同じ形を重ねる例は、極めてまれである。

(ii) agar-agar, tartar, beriberi, bulbul, booboo, poopoo

  1. I’の左下のIは屈折句の主要部で、これには時制要素が入っているものと考えられ、仮にIの内部は(did)とすることができる。

重なり志向と分かれ志向

真の国際人とは、世界の国の人々と楽しく、有意義に、平和的に付き合える人であることは勿論ですが、そのためには、相手の文化のみならず自国の文化にも精通している必要があるということは、よく言われることです。私も正にそう思います。

だから、日本人が真の国際人を目指すには、日本のことをもっと知るべきでしょう。しかしながら、英語が出来る人の中には、日本のことをもっと知ろうとすることはなく、世界にしか目を向けていない人が多いので、ちょっとだけ困ったなお!と思っている今日この頃です。

そこで、私がかつて言語文化学会という学術団体にエッセイとして発表した「重なり志向と分かれ志向」という論考を、このブログ上で、何回かに分けて紹介します。きっと日本文化を理解する一助となるだけでなく、新たな知見が広がるでしょう。とはいうものの、私の日本文化の諸現象に関する仮説でもあるので、批判的に呼んでいただければ幸いです。

*********重なり志向と分かれ志向*********

0.はじめに

豊田有恒の『神道と日本人』に次のような記述がある。

—もともと神道には、正統と異端、真理と誤謬などという、二者択一の論理が存在しないのである。(p.3)

一方、芝垣哲夫の『日本人の深層文化』に以下の記述がある。

—西洋は、「相勝の原理」などというものではく、表か裏、勝か負けかの二者択一をせまるものである。(p.204)

「二者択一」というキーワードから、文化をほぼ二分できるものと思われる。日本文化では、二者択一の論理が重要ではないのに対し、西洋文化では二者択一が重視されると言ってよい。1

二者択一の論理が重要ではない文化では、AとBを峻別するというよりも、AとBを重ねるという発想が生まれる可能性があり、日本文化はその代表であると考えることができる。例えばYesとNoを峻別しない日本社会におけるコミュニケーションでは、YesがしばしばNoと重なり、NoがしばしばYesと重なるわけである。

二者択一の論理が重要である文化では、正に、AとBを峻別するのである。西洋文化はその代表であることは言うまでもない。二者択一とは、確かにAとBを分けるという発想なので、日本文化の重なり志向に対し、西洋文化は分かれ志向であるという発想を導入したい。

石井(2009)では、日本文化は重なり志向である旨のことを論じたが、西洋文化についてはコメントを避けた。本稿では、西洋文化を分かれ志向とし、両文化を対比することを目的とする。そして、重なり志向と分かれ志向という対比が適切であることにも触れる。

なお、「志向性」という用語を、「ある事象に対して『重なり』と『分かれ』のどちらを志向する傾向があるかということ」の意味で用いる。

 

1.言葉の世界の重なり志向と分かれ志向

1.1.漢字の重なり志向とアルファベットの分かれ志向

日本における漢字は、文字を重ねて新たな漢字が出来上がるという点で重なり志向であるといえる。2

(1) 木 → 林 → 森

(2) 日 → 明 → 萌

組み合わせて新たな漢字ができるという点に注目したい。アルファベットにはその発想が適用できない。例えば、Aに何かを重ねて新たなアルファベットができるというようなことはない。つまり、漢字に重なり志向が見受けられるのに対し、アルファベットにはそれがない。

アルファベットから成る単語であれば、同じことができるが、これは、重ねるというよりも、追加する、しかも、状況によって、形を若干変えることになる。

(3) international → internationalize → internationalization 3

むしろ、長い単語は、分析する、つまり、分かれ志向の視点で捉えるほうが理にかなっている。

(4) pneumonoultramicroscopicsilicovolcanoconiosis

(4)の語は、最長語として引き合いに出される単語であるが、これを分かれ志向で考えること(=分けていくという作業)により、意味が明確化する。

(5) pneumono+ultra+micro+scopic+silico+volcano+coniosis

肺    超   微    視  珪素     火山        症

つまり、(5)の意味は「火山から飛び出した超微粒子に見える珪素の粒が肺に入った病気」となり、一般的には「塵肺」である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・注:

  1. 神道においては、二者択一の論理がないと豊田氏は断言しているが、少なくとも、神道においては、神と人間の二者択一の発想はなく、神と人間はつながっている。人間は死後神となる、あるいは、神の道を行くことになる。
  2. 文字が重なるといっても同じスペースを占めるということではなく、全体の漢字が占めるスペースにうまく入れていくという作業で新たな漢字ができる。作業自体は、ほぼ文字を重ねているイメージで、少なくとも分かれ志向ではない。
  3. internationalを動詞にするにはizeをつけてinternationalizeとする。internationalizationとすると名詞になる。その際は、zeがzaに変化する。だから、100%「重なる」という発想はできない。

 

参考文献

石井隆之(2009) 「『重なり志向』の日本文化」『言語文化学会論集』33号、195-227.

長い言葉を考える

英語では長い言葉はあまりありません。有名な最長語に次のようなものがある程度です。

pneumonoultramicroscopicsilicovolcanoconiosis

これを分析すれば、次のようになります。

pneumono / ultra / micro / scopic / silico / volcano / coniosis

肺    超   微   視    珪素  火山   症

注:珪素は「けいそ」と読み、土の主な成分SiO2(二酸化珪素)

だから直訳すると「肺超微視珪素火山症」で、意味は「火山から出た非常に小さく見える珪素の粒(=火山灰)が肺に入った病気」で、通例、「塵肺」と呼ばれます。

さて、日本語の世界では、特に伝統文化分野では色々とややこしい言葉がたくさんあります。今日は、仏教の分野で、私が最近興味のある言葉を紹介します。

それは、「理趣経」の正式名称で、「大楽金剛不空真実三昧耶経般若波羅蜜多理趣品」(たいらく・こんごう・ふくう・しんじつ・さんまや・きょう・はんにゃ・はらみた・りしゅ・ほん)です。これは、空海に弟子入りした最澄が、空海に貸して欲しいと言って断られた経典として有名です。

この名称の1つ1つに意味があります。

・「大楽」=普通の楽(pleasure)ではなく本物の[=永遠の]楽[=genuine pleasure]

・「金剛」=ダイヤモンド(=金剛)のように堅く強いこと[=strong]

・「不空」=空(むな)しからず、ということで確実であることを示す[=sure]

・「真実」=真の意味で正しいということ[=true]

・「三昧耶」=仏と一体となった悟りの状態[=enlightenment]

・「経」=釈迦の説いた教えを記録した聖典[=sutra]

・「般若」=最高の智恵を表す[=supreme wisdom]

・「波羅蜜多」=実践徳目を表す[=sacred virtue]

・「理趣」=正しい道筋を表す[=right way]

・「品」=経典の中の1章[=chapter]

従って、この経典を英語で全ての意味を表記する形で翻訳したら、次のようになります。

the chapter of the right way towards the sacred virtue of supreme wisdom in the sutra for genuine pleasure-inducing, strong and sure, true enlightenment

ところで、教育の「育」は「云」と「月」から成っています。「云」は赤ん坊が生まれるところ、「ム」の部分が赤ん坊の頭を表していると言います。ということは、逆子ではないので「正確さ」ということを表しています。一方、「月」は肉付きを意味し、「強さ」を意味しています。この「正確さ」と「強さ」は、子供を育てることだけでなく、人生全般に重要ですね。

「不空」「真実」の意味は、それぞれ「確」と「正」なので、合わせて「正確さ」すなわち、「育」の「云」の部分、「金剛」は、「強さ」を表すので、「月」の部分に相当します。

また、「正」という漢字は、「止め偏」です。つまり、「一」と「止」から成っています。「一」は目標または結果を表し「止」は地に足をしっかりつけていることを意味します。地に足をしっかりつけて目標を見据えているということが、人生における正しさであると言えます。「止」は、足をしっかり地につけて歩くことも意味します。しっかりと足を地につけて歩く場合でも、単に惜しみなく努力をするだけでなく、正しく目標に向けて歩かないと「一」に届きません。つまり、努力の量[=中身](しっかり努力すること)と努力の質[=方法論](正しい方向に努力すること)の2つが重要だということです。

「止」が暗示する努力の量は「般若波羅蜜多」の修行で、努力の質は「理趣」(=正しい道筋)に対応します。そして「一」の目標は、仏教的には「三昧耶」(仏と一体になること)となります。そして最終的に、結果として「大楽」を導きます。

結論として、「理趣経」は、<育>と<正>が教える重要なコンセプトで、その名称が出来上がっていることになります。

大楽 金剛 不空真実 三昧耶 経 般若波羅蜜多 理趣 品

一    月     云     一       止     止

結果 強さ      正確さ         目標               努力の量    努力の質

 

「前置詞活動」を進める

日本人の英語能力向上に「前置詞」の果たす役割は大きいと思います。私は、前置詞に関するすべての活動を「前置詞活動」と称し、前置詞教育家および前置詞研究家として、世の中に貢献したいと考えています。

まず、「英語前置詞普及会」というNPO法人を今年中に立ち上げる予定です。これほど重要な前置詞ですが、前置詞に特化したNPOがないからです。そこでの活動は、次のとおりです。

(1)前置詞の言語学的研究

(2)前置詞教育の方法論の研究

(3)前置詞関連本の発行

(4)英語前置詞技能検定試験(略称:前置詞検定[更に短縮して「前検」])の実施

(5)日本前置詞学会の設立と機関誌(仮称『THE 前置詞』)の発行

(6)前置詞塾の設立と前置詞セミナーの実施

やや遊び感覚になりますが、「前置詞手帳」「前置詞日記」「前置詞カルタ」「前置詞ゲーム」「前置詞占い」などのようなものも開発しようと思っています。

すでに、遊び発想から生まれた前置詞に関するお話は、このブログでも紹介してきました。例えば、「前置詞ピラミッド」や「前置詞マンダラ」、そして哲学的ではありますが、前置詞と空海の「六大」説の関連性、そして派生した「<前置詞=空>説」についても触れました。これらは遊び発想ではありますが、真理の一側面が見え隠れします。

よほど前置詞が好きと思われるかもしれませんが、私は、前置詞は英文法界の王的存在と言えると考えています。(品詞の王は前置詞と言えます・・・ちなみに前置詞の王は of と考えてよいでしょう)

そんな重要な前置詞をマスターしようではありませんか?そして、共に「前置詞マスター」(更には「前置詞超人」)になりましょう。

ある人に、前置詞超人を超える前置詞如来を目指しているの?と尋ねられたことがあります。そうですね。前置詞如来(前置詞を完全に悟った人)を目標にしたいですね。