重なり志向と分かれ志向 その3

私のエッセイ「重なり志向と分かれ志向」、今回は2章全体を紹介します。

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2.文化人類学的視点からの重なり志向と分かれ志向

2.1.日本と西洋の民族構成による志向性の違い

西洋は概して、もちろん例外があるが、歴史上多民族国家である国が多かったので、宗教や考え方も異なるという状況もあった。その意味では、国の成り立ち自体が分かれ志向といえる。いろいろな民族・宗教・社会に分かれている。

ところが、日本に目を向けると、歴史的には、民族的にはアイヌ人、渡来人などが存在しているが、ほぼ同一民族国家である。しかし、宗教的には、古来の神道に加え、仏教が伝来し、キリスト教も伝来したので、宗教的には複雑な構造になっている。だからと言って、宗教的に分かれ志向とは言いがたい。というのは、少なくとも神道と仏教は共存し、ほぼ同化している面があり、神道と仏教が重なっているといえる。だから、日本は宗教的には重なり志向である。6

 

2.2.人間観と志向性

日本人は、「人」という字で教訓を垂れることがある。人という字は支えあっているように見える。人のあり方は、正に依存関係が重要だとの教訓が、この漢字から導ける。「依存」とは、人がお互いに助け、助け合うので、イメージとしては「重なり」である。

一方、西洋人も、Humanの頭文字Hを用いて、教訓を垂れることがある。その場合は、縦の線を2人の人間に見立て、真ん中の横棒は手を差し伸べて、握手している様に見立てるのである。つまり、独立心が、その文字の成り立ちから読み取れるのである。「独立」は明らかに「分かれ」であるのは理解できよう。

 

2.3.自然観と志向性

日本文化においては、自然と人間は峻別されず、自然とともに生きる、自然の中で融合した生活が重視されてきた。したがって、日本文化は、人間と自然の重なり志向の中に生まれてきたものであるといえる。例えば、次の図式を考察する。

(14) 自然—庭—縁側—家屋—人間

日本の庭は自然を生かすことが重視される。少なくとも人工的ではない。例えば、西洋の花壇にみられる幾何学的な(=人工的)形はあまり好まれない。また、自然を取り入れる借景というのは、正に、庭を自然と融合させる仕組みである。

また、庭(自然の象徴)は家屋(文化の象徴)と峻別されることなく、縁側でつながっている。家屋すら自然と溶け合う(=重なり合う)という側面が強調されている。

結果として、家屋に住む人間は、自然と極めてスムーズにつながっていると思われる。日本文化では、自然との融合(=重なり合い)が大切なのである。

一方、西洋文化においては、自然と人間は峻別され、厳しい自然は人間に対し、挑戦すべき課題を与え、豊かな自然は人間に対し、恵みを与える。いずれにしても、キリスト教の発想では、神の形に似せた人間が最も尊く、自然は人間が克服、利用するために、創られたので、自然は人間よりも下位に位置する。自然と人間は分かれ志向の発想の中で、意味を持つ。

 

2.4.超越者観と志向性

2.3で、自然と人間は峻別されると述べたが、被造物としては同じレベルである。しかし、同レベルといっても、重なりはない。この被造物と峻別されるのが、創造者としての神である。だから、西洋思想では2重の峻別が行われている。つまり、二重分かれ志向構造となっている。

(15) 創造者(神)———– 被造物(人間 ———- 自然)

↑                         ↑

峻別                     峻別

一方、神道的風土を中心とする日本文化においては、この峻別がない。つまり、自然と人間と超越者は、次のように同一線上に存在する。

(16) 超越者(八百万の神々)———– 人間 ———– 自然

神々は自然的な側面と人間的な側面を併せ持つ(この意味でも重なり志向といえる)。天照大神は、太陽(自然の一部)の象徴であるとともに、極めて人間的である。例えば、弟のスサノオが暴れるのに腹を立て、岩戸に隠れるという行為に類する行動は、人間的といえる。とりわけ、神々は創造者でもなく、全知全能でもないという点が、人間らしい。

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注6 宗教的には、西洋では起こりえない宗教の習合的状況、つまり、神仏  習合(神儒仏習合という側面もある)ということが起こってきた。

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