重なり志向と分かれ志向 その4

今回は、3章全体を紹介します。行動心理の側面からの考察です。

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3.行動心理と重なり志向・分かれ志向

3.1. しぐさと志向性

西洋の握手と日本のお辞儀を比べてみる。握手は、2.2.で述べたように、2人の個人が独立した上で、仲を確かめる行為といえる。そもそも分かれ志向である。

お辞儀は、個々の個性を認める方向に行くのではなく、相手の個性に合わせるべく(少なくとも相手に従順であることを示すように)、頭を下げる行為である。この行為の形自体が重なり志向であるといえる。通常、相手もお辞儀をするのであるから、2人は頭を重ねているように見える。また、頭と胴体で「折れる」状況は、相手に対して「折れる」ことを暗示し興味深い。

握手も、見方を変えれば、手と手を重ねる行為ではあるが、少なくとも相手に対して折れることはない。姿勢も折れず、堂々としている。やはり、相手からは一線を引く「分かれ志向」である。

 

3.2.「坐」の日本と「立」の西洋

座るということは、ひざのところで折り曲げて、足を折り重ねる動作であるから、重なり志向的である。日本文化では正座という正式な座り方があるが、正に、重なり志向である。

西洋文化は、狩猟社会や牧畜社会をベースに発達した面があるので、極めて「足」が重要である。足がしっかりと活躍するのは、まず「立」の行為の際である。西洋に立食パーティがあったり、西洋の幽霊に足があったり、足の重要性は随所に見られる。立つという行為において、足は曲げるのではないから、重なり志向ではないといえる。また、足と大地は対立する。だから、立つ行為は分かれ志向といえる。少なくとも、立つという行為は、足と大地の融合を暗示しない。つまり、この点でも、重なり志向ではないであろう。

足に関わる行為が、次の段階で、活躍するのは「走る」という場面である。これは、足と地面が離れるので、分かれ志向の行為である。これに対し、「歩く」という行為は、足と地面が離れることはないので、いや、むしろ、足と地面が重なるので重なり志向といえる。

まとめてみると、つぎのようになる。

(17) a. 坐・歩 → 重なり志向

b. 立・走 → 分かれ志向

 

3.3.手と足の対比と志向性

手の平は合わせることができるが、足の裏は合わせるのに苦労する。一般に文化的行為として、手を合わせる行為はよく見られるが、足を合わせる行為は殆ど存在しない。

例えば、日本文化において、神社での拍手、仏教寺院での合掌は、手を合わせる行為である。手に関わるこれらの行為は重なり志向であるといえる。一方、足は重なり志向的ではないということになる。

日本文化は手の文化といわれるほど、かつてから「手」を重視する側面が多かった。手は農耕社会において欠かせないものであった。手によって田植えをし、手によって収穫するからである。

そのことが影響し、「手」を用いたイディオムが増えたのである。日本文化は手の文化、すなわち、重なり志向の文化といえるのである。

(18) a. 手から始まるもの:手形、手紙、手鏡、手前、手下、手軽、

手頃、手相、手品、手配、手入、手間、手刀、手塩、手玉、

手帳、手取、手数・・・

b. 手で終わるもの: 上手、下手、切手、勝手、痛手、苦手、

得手、大手、相手、派手、先手、空手、岩手、選手、歌手、

投手、捕手、拍手、・・・

c. イディオム:  手当たり次第、手玉に取る、手薬煉引く、

手古摺る、手際がいい、手っ取り早い、手を変え品を変え、

諸手をあげて、口八丁手八丁・・・

これらを英語にしても、ほとんどhandを用いない。また、日本語は、分かれ志向の足を用いた表現は少ないが、あってもマイナスイメージであ  る。

(19) 足が出る、足がつく、足を洗う、足をすくう、足を奪われる、

足を食われる、足を取られる、足を抜く、足の踏み場もない、

足手まとい・・・

一方、英語の世界では、足に関わるイディオムはプラスイメージが目立つ。

(20) get one’s foot in (the door):首尾よく潜り込む、知られ始める、

第一歩を進める

have both feet on the ground:実際的である

have one’s feet under one:自立する、自分の考えを持つ

keep one’s feet:転ばず立っている、成功する

 

3.4.研究と教育と志向性

大学の世界では、研究と教育の2つが重要であるとされる。大学が単なる研究機関ではなく、高等教育機関だからである。

研究は、学問・勉強あるいは学習と同じ線上にある。何かを求めて自分自身を高めるという行為には変わりないからである。この行為は、自分の持つ情報や知識に、他の領域の情報や知識を足し算することに過ぎないので、重なり志向性が強いといえよう。

一方、教育は、自分の持つ情報や知識を、自分自身から分けて、相手に与えるのであるから、分かれ志向と規定することができる。

言い換えれば、研究は、これまでの知識に新たな知識を重ね合わせる行為、教育は、これまでの知識を分け与える行為なのである。7

日本が中国に、遣隋使・遣唐使を派遣して、新しい文化を学ぶ行為は、重なり志向であるといえ、西洋人がキリスト教を伝えるために、日本に来た宣教師の布教活動は、分かれ志向である。

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  1. 研究とは、既知の知識に新たな知識を重ね合わせ、独自の理論構築や、発見を行ったり、発明をしたりして、外部に発表するという最終段階を経て、完結するという側面があるので、基本は重なり志向であるが、最終的には分かれ志向といえなくもない。但し、勉強や学習は、少なくとも重なり志向である。

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